11/30
「東京文化会館でのソロ・リサイタルを終えて」 藤井隆史
マンハイムの空は、まだ夕方の3時、4時だというのにあつ〜い雲が空一面を覆い、灰色一色。
今年の冷夏のせいか、あまり色づきの良くない枯葉のじゅうたんも、この何ともいえない気だるい空気をより一層暗いものにし、何と言っても、この寒さ・・。
11月って今までもこんなに寒かったっけと、これまで僕が経験した過去6年間の、ドイツの11月の気温を、思い出そうとしたりしています(あまり意味がない)。
また、家の床がフローリングというのは、掃除には便利ですが、何でこんなに寒いのでしょう。家中の暖房を付け、家の中、しかもまだ11月だというのに、スキーヤーのような格好をしている僕は、もっと寒さが厳しくなるこれから、どんな格好をすればよいのでしょうか・・・。
11月5日、東京文化会館でのソロ・リサイタルを終えドイツに戻り、早3週間が経ちました。
リサイタルには、本当に多くのお客様に来て頂き、心より感謝しています。
どうもありがとうございました。
思えば約1年前、このリサイタル開催が決まってから、既に緊張は少しずつ始まっていたように思います。
「ソロとデュオの充実」ということを、僕のこれからの音楽家生活の重要なテーマとして、自分自身でやっていこうと決めたものの、「・・大変なことになったな」と、不安でいっぱいな時期もありました。
それでも文化会館で舞台に立った瞬間からは、その時間を存分に楽しみ、ピアノを通じて僕のメッセージを伝えたい、そして聴いてくださる皆様に、僕自身が音楽から感じている、幸せや夢でも希望でも、何かを感じ取っていただけたらと、音楽としっかり向かい合った2時間だったと思います。
そして11月5日という日は、興奮したり、感動したり、とても1日とは思えないほど充実した、長い一日でした。
一つの大切な、目標でもあった舞台を終え、また勉強すべきことを多く見つけましたが(これは一生続いていくことでしょう)、いつも貪欲に、そして真摯な姿勢で音楽と向かい合い、常に成長していくことのできる人間でありたいと思っています。
クラシックのピアノリサイタルでは、都内では東京文化会館小ホールのような600席あるホール、またはそれより座席数の少ない音楽専用ホールが、会場となることが多いと思います。
ポップスのコンサートのように何千人、何万人も入る会場でピアノリサイタルをやることはほとんどありませんし、一回の演奏会、リサイタルで僕の演奏を聴いていただけるお客様は、それらと比べるとそれほど多くはありません。
ピアニストは、ピアノ1台と共に、本当にそこにいらっしゃる方、演奏者と同じ空気を吸い、同じ時を過ごしてくださる方に自分の音楽を届けようと、その日まで出来る限りの努力を続けます。
「秋」というのは、日本に限らず、世界中どこでも演奏会が多い時期のようですが、東京だけでも、11月に実に多くの演奏会が開かれています。東京文化会館小ホールでもほぼ毎晩、リサイタルが行われており、また、海外在住の僕の友人の多くが、東京都内や各地で演奏会を開くため、日本に帰国していました。
世間から見れば、僕のピアノリサイタルがあってもなくても、何も変わりなく、世の中に直接的に与える影響というものも、ほとんどありません。1回のソロ・リサイタルを時間にしてみても、実際に演奏している時間は80〜90分ほどですので、「たった1時間半ほどの演奏に、全てを費やしているの?」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。
だからこそ僕は、リサイタルに来ていただいた方に心から感謝するのです。
これだけの数の演奏会の中から、僕の演奏会に足を運んでくださり、僕の音楽をライヴで聴いてくださった(その音楽は一生でたった一度のものですし、全く同じ演奏もできません)・・そう思うと、ご縁を不思議に思うと共に、音楽を通じてまたお逢いできたらいいな、と思うのです。
ところで。
今回は、こんな質問を多くの方にされました。
「演奏中に、右の頬を、左手でさらっと触ったのは、何ですか?おまじないのようにも見えたけど」
・・いえ、それはただ、かゆかったからです。
演奏中、特にそれは舞台の上でよく起こるのですが、左の小鼻、そして右の頬、あごのラインが、むずむずとかゆくなってきて、僕自身は演奏に集中しているものの、いても立ってもいられなくなり、思わず触ってしまうのです。
今回の場合は、僕の右手が忙しそうに演奏していたので、少し空いた左手で瞬間的に右の頬をさすった(かいた)のですが、その光景を見て「何だ、あれは」と思われた方がいらっしゃったのも、普段あまり見かけない光景ではありますので、納得できます。
なぜいつも、舞台の上でなんだろう、と考えますが、舞台はスポットライトで乾燥しているからか、体が自然にこの摂理を覚えているから、なのでしょうか。または、以前メッセージに書いたように、アレルギーに少し弱い体質だからでしょうか・・?
演奏会に向けて頭や心が準備することや、音楽についての多くが内面的、精神的な部分と絡んでいますので、特に演奏会の際に気をつけることを言葉にするのは、とても難しいのですが、この「顔のかゆさ」など、演奏会中に起きそうなことを予測して気をつけていることは、いくつかあります。
○ 髪の毛が目にかからないように気をつけながら、髪を固めてしまおう。
前髪が顔にかかり、髪を振り乱し演奏する姿を「おお。ピアニストだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、目に髪の毛がかかっているだけで急に視界が狭くなり、全体的に見通しの悪い演奏になってしまうように思いますので、おでこをきちんと出して、スプレーで固めてしまいます。
○ あと、コンタクトレンズをよく洗っておこう。
過去に、演奏中に急に目が痛くなって、演奏に集中できなかった・・ということがありましたので、とりあえず演奏前に生理食塩水(これが良い)でよくコンタクトレンズをすすぎます。
ただ、演奏会前は普段の時と精神状態が違うからか、ヘアワックスをつけて髪を触った後に、コンタクトレンズに触れ、レンズが曇ってくもって、とんでもないことになったり、レンズを流してしまいそうになったりもするので、要注意です。
○ ああ、舞台裏に水を持っていかないと。
演奏中に、口をぽかんと開いている意識はあまりないのですが、僕はいつものどがからからになりますので、リサイタルのように長いステージで、1曲ごとに舞台裏に下がってもよい場合、その間に水を必ず飲みます。
ペットボトルを置いておく場合が多いのですが、そのペットボトルが突然「パチン」という音を発することもあるので(それが原因で一度、録音をやり直したこともあったな・・)、なるべく舞台裏のうしろの方においておきます。
あとは、休憩中や本番直前までチョコレート系のお菓子を食べ、コーヒーを飲むことも習慣になっています。
○ シャツの袖の長さを測って、早くお直しに出さないと。
僕は演奏会の際、タキシードやスーツではなく、舞台栄えしそうな、またはその演奏会のプログラム等に合わせて、シャツで演奏することが多いのですが、その袖の長さには注意を払っています。
腕まくりをしながらの演奏はあまり格好が良くないですし、集中力も途切れますので、演奏中のどんな手の形でも手首にかかるか、かからないかくらいの微妙な丈で、シャツのお直しをしてもらいます。
僕は体が大きいわけではないので、日本か、イタリアに行ったときに(イタリア人はドイツ人に比べると体が大きくないので)洋服を買うことが多いのですが、今回のシャツは、デュッセルドルフのジョルジオ・アルマーニで見つけました!さすがデュッセルドルフ、でかしました。
○ 今日の靴と、ピアノのペダルの相性はどうかな・・。
ピアノの演奏において、ペダルを使う頻度は人それぞれですが、僕は子供の頃からペダルを使うことが好きなようですので、履く靴にも注意を払っています。
僕は先の細くなった靴を履くのが好きなのですが、ペダルを踏むと、靴の先がペダルとその枠の間に入ってしまったり、靴底とピアノのペダルの相性もそれぞれで、きゅっきゅっと音がしたり、靴がつるんとペダルの上を滑ってしまったり、毎回すんなりいくわけではありません。
今回の文化会館では、ペダルと靴の相性があまりよくなく、リハーサル中も調律師の方といろいろと努力したのですが、最後までしっくりきませんでした。
ただこれは、前もって気をつけるというより、相性の部分も大きいので、その都度対処することが大事なようです。
・・この手の話題は、きりがなさそうですので、これくらいで終わりにします。
空気が冷たく、とても乾燥したマンハイムですが、11月23日から恒例のクリスマス・マーケット(ヴァイナハツ・マルクトWeihnachtsmarkt)が始まり、街中にシナモン、スパイスや、栗などが混ざった感じの、甘いにおいが漂っています。
このにおいを鼻が感知し、街のあちこちにイルミネーションが灯され、人々の顔が忙しそうながらも、きらきらとしているこの風景を見ると、ああ!クリスマスが来たな、と僕も嬉しくなります。
グリューワインGlühweinという、シナモンや香料、オレンジの皮、砂糖他が入った、この時期ならではの、温かい赤ワインも、シナモンが入った砂糖たっぷりのクレープ、など、来たばかりの頃は「何だ、これは」と思っていた食べ物も、今では週に数回口にしないと、この時期が楽しめない気がするほど、好きな食べ物になっています。
また、プッファーPufferという、ジャガイモをすり潰して、薄くのばし、油でカリカリに揚げたもの(お好みでリンゴのピューレをつける方もいますが、僕はちょっと・・)と、甘くない生クリームたっぷりの揚げドーナツは、よく飽きないなあと毎年思いながら、週に何度も食べております(食欲の冬)。
これらも美味しいから是非家で!と作ってみたり、日本に持ち帰り、飲んだグリューワインも、シュトーレンStollen(レーズン、アーモンド、柑橘系ドライフルーツやシナモン等が入ったお菓子風のパン)なども、どうも味が違うのです・・。
やはりドイツの空気の中、マルクトで寒空の下(昼のワインも贅沢で良いですが、やはり夜のほうが気分も盛り上がります)、ものすごい混雑の中で人々に押されながら食べているから、美味しいのでしょうね。
毎年この時期になると思うこと、「来年の今頃は、どこにいるかな。マンハイムのマルクトには来られるかな・・」。
そんな自問自答をもう何年も繰り返している僕ですから、きっと来年もまた、マルクトを楽しんでいることでしょう。
藤井隆史
|